社村
                                  書籍 (福井県の伝説より   昭和48年6/20発行)  東安居公民館
社村
社村の北部の大部は、継体天皇の皇女馬来田(まくだ)姫が阿須波社(足羽神社)の斎主となられてから、世々同社の神田地であつたので、この郷名が起つたと伝へられている。尚この地は、中古の頃は道守ノ里(庄)と言はれて、奈良東大寺の領となつたことがある。
城山(南居)
南居(なご)区の東境に聳えている二百余米の山で、古城跡である。山麓の北南居に門前、新田等の字名を残している。寿永二年四月二十四日に南条郡燧(ひうち)ヶ城の敗戦に、木曽義仲の臣(横山某)が逃走し得ずして、此の地に寄居したとも伝へられている。明治二十三年に溜池堤防を普請の時、山麓から甲冑鍔其の他の小道具が出たといふ。
天満池(合谷)
天満池は合谷にある。昔本郡麻生津村の冬野の神社の後からこの池へ直径一尺許の臼が流れて来た。今もこの池が渇水した時には、池に神酒を捧げ身体を清めて水を汲めば、二三日中には多少にかかはらず雨が降るといふ。又天満池の水を汲むときは同時に冬野の水も渇くといふ。
江守
昔、朝倉義景の家臣に江守惣兵衛といふ人があつて、江守中の地に居を占めて、昼夜寝食を忘れて治水のことに尽力し現今使用の江守用水を開設した。その功績を似て今に至るもその氏の名を用水に冠して江守用水と称し、その郷を通称して江守郷といつている。
江守城跡(南江守)
ここは初め平氏の末孫が籠つたところで、後には斯波高経が新田義貞に対抗するために足羽七城の一を築き、其の後には吉田修理が居城したが、大阪陣には出陣して天満川にて溺死してから断絶した。山の頂上から少し下に大きな洞穴がある。昔は奥行三十間もあつたが、現在は十間にも足らなくなつた。その内側に階段状の棚がある。此処は古城の炊事場で、敵に煙を見せない様に造つたもので、中の棚は食膳を並べたものである。又籠城のときは、山麓から高く釣瓶(つるべ)で水を汲み上げたので、今も一の釣瓶、二の釣瓶、三の釣瓶の名が残つて居り、この城山を高釣瓶山とも称している。
與兵衛の渡し(南江守)
昔、泰澄大師が出雲大社に居られたとき、汝は将来チャン(舟人)の女と結婚するといふ神のお告があつた。此の渡しに来た時女が一人出て来て舟をこいだ。大師は神のお告げの事を思ひ出して、彼女の持つていた櫂(かい)をとつて打倒した。その後二日町を通つた時又その女らしき姿を見た。之を糺すと、矢張り先に暴行を加へた女であつた。大師は深くその罪を悔いて、其の女を自分の弟の妻にしたその女は與兵衛の女であつたのである。敦賀往来に「一里の間に坂三つ田辺が渡は田邊與兵衛の名に囚んだもので、南江守にある。
若狭橋(種池)
江守中の近く種池に若狭橋といふ地名がある。ここは古街道に当つている。即ち浅水二日町から西の山辺の安保、引目を経て江守坂を越え、この橋を渡つて兎越(うさごえ)へ出たのである。
淵区はその名の通り、ここは元水が溜つていた淵であつた。今は宅地にもなり田畑も開けているが、蓮池、藤池、島、島出、山根等往時を偲ぶ地名が残つている。
氷川神社の御神體(淵)
昔ある時淵区に大水が出て、人家へも侵入する位のことがあつた。その時御神體が小さな椎(しひ)の木に乗られて、何処からか流れて来られた。水が引いてから之を見付けた人は、勿體ない事であると思ひ、早速他の村人と相談をして、其の御神體を山上にお連れ申しお堂を建て、境内も整へてお祀りした。之が氷川神社であるといふ。乗つて来られた椎の木は、流れ着かれた場所を記念するために其処に植えた。御神體を修繕しようと福井の或る店へ依頼した。ところが、その店のものが心のよくない人であつたので、黄金の眼を取り去つて、他の普通のものと入れかえてしまつたさうである。
足羽神社(門前)
当社は継体天皇をお祀りしてある。中古までは詳雲寺といふ精舎があつたさうで、世人がこの区を門前と呼んでいるのも、その門前町であつたからであらう(寛は譯語園(おさごえ)村であつて往古は福井市の足羽神社の神田地であつた。)
鴨泓
俗にはおふけと称し、又千石田といふ。眞坂、切狒、賀茂山の三山に園まれた福、門前の間の田地八十二町三段余に水をはつて、毎年十月より翌年四月迄、多くの鴨を遊泳させるのである。この期間中に坂鳥打といふ事が行はれる。即ち眞坂、切狒、賀茂山、八幡山の四阪に登り、日暮と朝の二回に鴨が阪に近く飛んで行くのを待つて網を投げ上げてこれを捕へるのである。事の起りは、天正の頃南江守の人に山崎彌五兵衛といふ浪士があつた。その子孫の九兵衛といふ郷士が松平氏(福井藩主)の初頃に今庄の鴨泓(かもふけ)に出入するものが事によつて相争つたのを、仲裁して、無事に治めたことがある。九兵衛は其の功によつて今庄から細呂木に至る鴨泓の世話人となつた。後松平氏の近侍の人は、遠く城下をはなれて鴨狩に出ることが出来ないので、前記の地に鴨泓を設け、山崎の管理よりはなして、侍のもの(家老、御側用人、御側目付、御側目付、郡奉行、御預奉行、御用人、御側向頭取、御小姓、御伽、御近習番、御膳の番、御馬廻、奥の番)に限りここに出入する事と定められた。
弓筈清水(笏谷)
継体天皇がまだ男大迹王(おおとのわう)と申し奉つて越前に坐しました頃、治水事業にお励みなされた或る年、偶々炎暑の頃で役夫等が渇死しようとしたので、王は即ち御弓筈(ゆはづ)を似て巌を撞かれると、忽ち霊泉が湧出して、役夫等皆暑に堪へることが出来た、これより此処を酌溪(しゃくだに)と言ふ。其の泉は鳥越坂の北下にあつたが、維新後石材の掘出と共に自然埋没した。大正四年に本村加茂河原の青年会員が石碑を立てて、この御遺跡を永久に伝へることにした。
笏谷石(笏石)
笏谷山(しゃくだにやま)は、足羽山の分脈が西方に走つて向山(百米)の最高頂となり、更に西北に延びて小丘起伏して足羽川に迫る、小山谷(こやまだに)、加茂河原の地域の山で、第三紀地層に属し、山体は殆んど火山灰の埋積して成つた凝灰岩で構成されている。ここが青石を似て名ある笏石石の産地である。昔男大迹王が三大川を修め給ふ時に或る日衆生に與へようと供物を鉄鍋にて煮られて。折悪く鍋の脚が折損して供物が流れ出やうとしたので多くのものは迷つた。その時器用な人があつて、直に傍の崖石を削つて鍋脚を造つたので、無事なる事を得た、この石は笏石石であつた。王は三大川を改修されて三国にいたり、水門を開かれた。王は深く其の土工の功を嘉せられ、且は改修後の役夫の失業を憐まれて、笏石の地に石材が埋蔵せると見給ひて此の地を賜うて採掘せしめ、役夫の糊口の資となさしめられた。
熊野神社(加茂河原)
祭神は、熊野加夫呂岐柳御氣野命(くぬかぶろきくしみけぬ)(熊野権現)。熊野権現はもと足羽郡東郷の槇山城主長谷川藤五郎秀一の鎭守であつたが、天正年間に槇山城は没落して、藤五郎が敗死した時、此の木尊は足羽川を流れて今俗に加茂河原赤石と称する川淵に舞込んであつたのを、拾ひ
上げて神殿を経てて祀つたが、後明治初年の頃今の地に移したのである。
弓筈神社(加茂河原)
字明神山にある、水波能賣神を祀る。昔男大迹王が信露貴(日野川)、足羽、九頭龍の三大川を掘らせられた時、役夫が渇水して水をこふたので、王は水神に誓つて携給ふ御弓の筈にて巌を撞かれた。すると、忽ち冷泉が湧出したので、役夫は暑さを凌ぐことが出来た(既出、弓筈の清水参照。)よつて王は自ら水波能賣神を顴請して祀られた。其の鎮座の地を加茂又鳥越坂といつた。
狐橋(若杉)
社小学校の東、狐川の落口に架した長さ八間、巾一間の橋であった。藩政時代には未だ此地は萱原で狐が多く住んでいた。或る雨の日、福井藩士の某が、一日の閑を得て、狐川の上流で竿を垂れて魚を漁つた。暮方になつても一尾をも得なかつたので不満に堪へなかつたが、竿を上げて帰途についた。折しも三匹の兒狐を率いた親狐が現はれ、親狐は先づ巧に川を越えたけれども兒等は渡ることが出来ず、双方川を隔ててどうすることも出来ない。其の 悲歎の様は、まことに哀れである。藩士はこれを見て持つていた釣竿を対岸に渡して退くと、兒等は得たりと其の上を渡つて川を越えることが出来、親狐はさも嬉し気に去つた。藩士は翌朝起出て見ると不思議や門口に大鯰が一杯入つた大きな魚籠がある。驚いて登城して同僚にただしたけれどもその故を知つているものは誰もない。さては昨日の狐が謝恩の為に持つて来たかと感じて、直に此の旨を郡奉行に報じた。郡奉行は奇異なこともあるものと思ひ、以降は川を狐川、ここの橋を狐橋と命名した。この橋今は廃せられてその位置に大水閘(かふ)が設けられてある。
足羽神社」(東下野)
祭神は継体天皇。昔継体天皇が当国に御潜龍の時、治水のことに努めさせられたが、尚安居(あご)山の下に堆地があつたので、今の三国港からここに御臨幸あらせられて御調べになつた。ここはその時の御休所であつた。
白山神社(西下野)
祭神は伊弉册尊、菊理姫命。昔、丹生郡三方村清水尻に伊弉册尊を祀つた社があつたが、中古に大水のために流されて、西下野の川淵に舞込んだ。すると竈馬(こぼろぎ)といふ虫が数百萬集つて来て彼の神像を止めていた。里人は是を見て不思議に思ひ、早逃その御神像を拾ひ上げて今の社に合祀した。其の後この川淵をコヘセギ淵といふ。
御畫像(下江守)
昔この村の小さい?屋に年とつた婆さんが一人住んでいた。この家へ毎日毎日一人の旅僧が訪れて、一杯のお茶を求めた。そしてお茶を飲みながら、ぼつぼつ佛法を説いていた。婆さんは何時も変らず心よく僧をもてなしていた。或る日のことその僧は「わしも毎日いろいろ厄介をかけてすまなかつた。明日からはもう此所へは来られないから、今迄のお禮としてお前に盾一つ書いてやらう」といはれて、旅僧は自書像を残して立去つた。婆さんは喜んで保存していたが、それは聖徳太子の御肖像であつたことが分かつたので、早速自身の祖先をおまつりしてあるお寺へ納めた。その肖像書は国の賓として今も福井市端の某寺に蔵めてある。
天狗(鴨溜附近)
元新屋敷と云はれた、今の城の橋地方には士族でも小身者が多かつた。大方は魚島の殺生、網すき等をして苦しい生計を支へていた。また冬、鴨のいる頃は「坂」へ行くと俗にいふ。(之は山の中腹へ網を用意しておいて待つている、鴨がとんで来るとばつと放り上げてうまくとる)或る寒い朝、某がいつもの様に眞暗い頃から起きて友達を誘ふと、まだ行けないから一足先へと云ふので、其日は一人で山へ登つた。いつもの場所へ来ると、一人の男があちらをむいてしきりに焚火をしてあたつている。彼は何の気なしに、友達が早から近道からでも来たのかと、「早かつたな。」と声をかけると、件の男は矢庭に「こんな顔か。」とこちらへ振り向いたら眞赤な顔の天狗だつたので、眞青になつて彼はにげ戻つたが、あまり暗い中から山へ行つたから天狗に邪魔にされたのだらうといふ事だ。
落武者の末孫(今坂谷)
福井藩祖秀康卿が初めて此の地に入国せられた時の事である。丁度大橋の上まで来られると、石橋のところで乗馬が立止つてどうしても前へ進まなくたつてしまつた。秀康は橋の下に賊でもかくれて居るのであらうと取調べさせた。家来はやがて見るかげもない浪人を連れて来て「賊らしい者は居りませんが此の者が丁度下に休んで居りました」といふ。此の者の背にかけた笈(おひ)を調べると中には意外にも蓮如上人御直筆の六字の名號の軸物があつた。身元を調べると、此のものはもと朝倉氏の家臣であつたが、朝倉氏の滅亡後もその祖が戴いた名号だけは大切に笈の中に入れて置いたのである。秀康は気の毒にに思つて家来の端に加へ、足羽山の麓なる今坂谷の辺を住居として與へ不淨役人の取締り役を命じた。不淨役人といへば藩の刑罰に際し獄門にかける時手を下し、死刑囚の死体の仕末、首切り役等をしたもので、配下は大方は大橋の下に乞食の様な生活をしていた。今坂谷に住む浪人の一族は此の谷だけで特殊部落をつくり今坂村と称して十四戸在つた。今坂の名は新に坂に住む人人の意を名詞の様に人々が呼んだからであらうと。今坂の清水は此の部落の給水に充てられていた。また清光院といふ今坂者の道場も在つた、かうして一時栄えた今坂も七代の藩主によつて瑞源寺を建立するのに邪魔になるとて、今坂村を追はれて赤坂の方へ引移り、いつの間にか今坂者が減つてしまつて現在では一軒ある切りだといふ。笈の中から出た蓮如上人の六字の名号は赤坂の實如堂に、朝倉敏景の載いた方のは立矢の心月寺にあるといふ。尚清光院は現今自性院といひ、成功園(清光院に語調通ず)とうふ山羊の牧場も在る。
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